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15話 青い朝と赤い夜

مؤلف: 九重有
last update تاريخ النشر: 2026-06-28 07:37:00

愛梨沙は、画面の中の赤い薔薇を押さえたまま動けませんでした。

指先の下には硝子があり、その向こうに麻里亜の耳元があります。小さな薔薇のルビー。赤い爪。半分だけ隠れた顔。嬉しかったから載せちゃう、という軽い言葉。

奥さんには内緒。

その一文だけが、何度読んでも消えませんでした。

内緒なら見せなければいいのに。内緒なら拓哉の言葉を守ればいいのに。それでも麻里亜は載せました。赤い爪で秘密の端をつまみ上げて、誰でも見られる場所へ置いたのです。

(拓哉さん、困っただろうな。こんなの見つかったら困るもんね。でも、少し嬉しかったのかな。麻里亜さんがそんなに喜んでくれて、可愛いって思ったのかな)

胸の奥が、嫌な音を立てました。

可愛い。

その言葉が浮かんだだけで、口の中が苦くなります。

愛梨沙は麻里亜の画面を閉じずに、別の名前を探しました。

鴻上瑠璃子。

すでに何度も見た名前です。青い紫陽花、朝食、夫の好きなもの、夫婦茶碗、葡萄、落ち着いた白い皿、明るい窓辺。

麻里亜の赤い部屋を見たあとでは、瑠璃子の画面は冷たい水のように見えました。

愛梨沙は瑠璃子のSNSを開きました。

@kougamike_no
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  • あなたの罪まで愛してる   16話 白い手袋

    白い手袋は、指の根元で少し余りました。愛梨沙は何度か指を曲げました。布が皮膚の上で小さくずれて、そのたびに手だけが自分から離れていくようでした。爪の先まで自分のものなのに、もう素手ではありません。これなら、触ってもいいそう思ったら、胸の奥が少しだけ落ち着きました。拓哉に触れるわけではありません。そんなこと、まだできるはずがありません。けれど、拓哉のいた場所なら拓哉が触れたかもしれないものなら白い布が一枚あるだけで、許される気がしました。愛梨沙は朝になる前に部屋を出ました。雨はほとんど止んでいました。道路にはまだ水が残り、街灯の光が細く揺れています。空は青くなる手前の灰色で、駅前の看板だけが少し疲れた明るさをしていました。白い手袋は、まだ白すぎました。愛梨沙はそれが嫌で、手を少し握ります。布に指の形が浮かびました。昨日の夜、拓哉の匂いを探した時の熱が、まだほんの少し残っている気がしました。(今日は落とさないよ。見えないものでも、あなたが通ったかもしれない場所なら拾えるよね。誰も気にしない端っこまで、私が持って帰るから)何を拾うのか、自分でもよく分かっていません。それでも家にはいられませんでした。瑠璃子の青い朝と、麻里亜の赤い夜と、すず音の甘い白が画面の中で絡み合い、愛梨沙の部屋まで狭くしてしまったからです。外に出れば、拓哉の通った場所がありました。【Y.COCO】の硝子。駅前の横断歩道。黒い缶の自動販売機。ホテルの近くの道。昨日、同じ硝子に映った店そこには、まだ何か残っている気がしました。最初に向かったのは、自動販売機でした。黒い缶がいつもの場所に並んでいます。昨夜も見た黒。拓哉が手にしていた黒。すず音の写真にも写っていたかもしれない黒愛梨沙は白い手袋の指で、ボタンの縁に触れました。機械の表面は少し湿っていて、朝の空気をまとっています。何人もの指が触れた場所です。拓哉の指がここに触れたかどうかなんて、分かるはずがありません。だから触れました。分からない場所ほど、まだ残っている気がするのです。(ここを押したかもしれないんだよね。拓哉さんの指が、私の知らない朝にここへ来たかもしれない。そう思っただけで、ただのボタンじゃなくなるんだよ)ボタンを押すと、缶が落ちる音がしました。ごとん朝の駅前に、その音だけが少し大きく響

  • あなたの罪まで愛してる   15話 青い朝と赤い夜

    愛梨沙は、画面の中の赤い薔薇を押さえたまま動けませんでした。指先の下には硝子があり、その向こうに麻里亜の耳元があります。小さな薔薇のルビー。赤い爪。半分だけ隠れた顔。嬉しかったから載せちゃう、という軽い言葉。奥さんには内緒。その一文だけが、何度読んでも消えませんでした。内緒なら見せなければいいのに。内緒なら拓哉の言葉を守ればいいのに。それでも麻里亜は載せました。赤い爪で秘密の端をつまみ上げて、誰でも見られる場所へ置いたのです。(拓哉さん、困っただろうな。こんなの見つかったら困るもんね。でも、少し嬉しかったのかな。麻里亜さんがそんなに喜んでくれて、可愛いって思ったのかな)胸の奥が、嫌な音を立てました。可愛い。その言葉が浮かんだだけで、口の中が苦くなります。愛梨沙は麻里亜の画面を閉じずに、別の名前を探しました。鴻上瑠璃子。すでに何度も見た名前です。青い紫陽花、朝食、夫の好きなもの、夫婦茶碗、葡萄、落ち着いた白い皿、明るい窓辺。麻里亜の赤い部屋を見たあとでは、瑠璃子の画面は冷たい水のように見えました。愛梨沙は瑠璃子のSNSを開きました。@kougamike_no_asa6画面の中には、相変わらず静かな朝が並んでいました。青い紫陽花が挿された透明な花瓶。白い皿に盛られた焼き魚。小鉢に入った卵焼き。湯気の立つ味噌汁。黒い飲み物。夫婦茶碗。そこには赤い爪も、ホテルの灯りも、甘い夜もありませんでした。匂いまで違う気がしました。麻里亜の画面は、香水と酒と濡れた赤でいっぱいでした。瑠璃子の画面は、洗った布と朝の光と、少し冷えた水の匂いがします。投稿文には、こう書かれていました。「今朝は青い紫陽花を飾りました。雨の日の朝は、少し静かで好きです」愛梨沙は、その文をゆっくり読みました。雨の日の朝。昨日の朝です。拓哉が薔薇のルビーを選び、麻里亜がそれをもらい、夜には愛梨沙が拓哉の匂いを吸った日。瑠璃子はその朝、青い紫陽花を飾っていました。何も知らないみたいに。何も乱れていないみたいに。(奥さんは、朝なんだ)声には出しませんでした。麻里亜は夜でした。赤い爪、ホテルのグラス、内緒のピアス。すず音は夕方の甘い飲み物みたいでした。白いニット、薄いピンク、寂しいって言ったら重いかな、という小さな声。瑠璃子は朝です。拓哉が帰る場所。拓哉のシャツ

  • あなたの罪まで愛してる   14話 赤い爪の部屋

    白いボトルの口元は夜が深くなっても濡れていました。愛梨沙は眠りませんでした。眠ろうとはしました。カーテンを閉めて部屋の明かりを落とし、白い手袋をテーブルの上に置いたままベッドへ入りました。けれど目を閉じると、雨の中で届いた男の匂いがまた喉の奥へ戻ってきます。拓哉の匂い。その奥に入り込んだ、赤い花の匂い。白い部屋の中に、麻里亜という名前だけが浮いていました。声に出すにはまだ喉に引っかかる名前でした。けれど知らないふりをするには、もう近すぎる名前です。ホテルのラウンジで聞いた声。白い箱の横にあったカード。赤い爪が白いリボンをほどいた時の、するりとした音。麻里亜。その女は、拓哉の袖口に触れました。拓哉はその手を振りほどきませんでした。(麻里亜さん)愛梨沙は布団の中でその名前を呼びました。もちろん声には出しません。唇の内側だけがそっと動きました。(あなた、どこにいるの?)答えはありません。部屋の中ではエアコンの小さな音だけが続いていました。雨は少し弱くなったようでしたが、窓の向こうの道路はまだ濡れていて、時々車の光が天井へ薄く流れました。愛梨沙は起き上がりました。ベッドを出ると、足の裏に床の温度が移りました。テーブルの上には白いボトルと白い手袋とスマホが、出ていった時のまま置かれていました。白いボトルはもう飲み物ではありませんでした。拓哉がこちらを見た時、愛梨沙の手の中にあったもの。拓哉の匂いを思い出すたび喉の奥で甘さを残すもの。そこに麻里亜の赤まで混ざってしまった、困った白です。愛梨沙はスマホを取りました。画面を開くと、さっきの鍵垢の投稿がまだ残っていました。「名前のない匂いがまだ喉にいる赤い花の匂いもした気がする」投稿 8フォロー中 0フォロワー 0誰も読んでいません。誰も読んでいないからこそ、その言葉は愛梨沙の中に閉じ込められていました。赤い花。そう書いたのは自分です。麻里亜と書かなかったのも自分です。けれど、もう分かっていました。赤い花は、麻里亜でした。(書かないであげたんだよ。まだ麻里亜さんって書かないであげた。なのに、どうしてこんなに喉にいるの?)愛梨沙は検索画面を開きました。昨夜の文字がまだ残っています。麻里亜 赤い爪 薔薇 ピアスその文字列は少し恥ずかしいものに見えました。知らない女の持ち

  • あなたの罪まで愛してる   13話 名前のない匂い

    家に着いた時、白いボトルはまだ愛梨沙の手の中にありました。駅前からここまで、捨てられる場所はいくつもありました。横断歩道の脇にも、コンビニの入口にも、マンションの下にも空き容器を入れる場所はちゃんとあったのに、愛梨沙は捨てませんでした。部屋の明かりをつけると、白い壁が静かに浮かび上がりました。人の声も信号の音もない部屋で、窓の外を車が通るたび、濡れた道路の光だけが天井に薄く揺れました。愛梨沙は靴を脱ぎ、白いボトルをテーブルの上に置きました。ただの飲みかけです。甘くて、ぬるくて、自分には似合わないもの。けれどその夜だけは、ただの飲み物ではありませんでした。男がこちらを見た時、愛梨沙の手の中にあったものです。たぶん目が合った、その瞬間に一緒にいたものです。だから、口をつけるのも捨てるのも怖かったのです。(拓哉さん、これ見た? 私じゃなくてもいいよ。白いボトルでも、私の指先でも、ほんの一瞬こっちを見たならそれでいい。私、その時これを持ってたから。ねえ、同じところにいたよね)愛梨沙は白い手袋を外しました。指先には、こもっていた熱が残っていました。雨に濡れた布の匂いと、甘い飲み物の匂い。そこに、自分の肌の熱まで混ざっている気がしました。そして、その奥に。ほんのかすかに、男のそばで吸い込んだ匂いが残っている気がしました。手袋に残るはずがありません。愛梨沙は男に触れていません。肩も、袖も、指も、黒い傘も、何ひとつ触っていません。ただ近くを通っただけです。雨の中で、一度だけ息を吸っただけです。それなのに手袋の内側には、まだ何かが潜んでいるようでした。甘すぎず、軽すぎず、濡れた布の奥で息をしているような香りです。愛梨沙は手袋を唇の近くへ持っていきました。触れません。触れたら、そこから逃げてしまいそうでした。息だけが、先に触れました。(……いる)胸の奥が、ゆっくり熱くなりました。本当に残っているのか、自分が勝手に作ったものなのか、もう分かりませんでした。分からないまま、愛梨沙はもう一度だけ息を吸います。喉の奥に、細い糸のようなものが触れました。男の横顔、濃紺の肩、黒い傘を持つ指、結婚指輪の小さな光、こちらを通った視線。それらが一緒に、喉の奥へ落ちていきます。(吸っちゃった。拓哉さんのこと、ほんのひと口だけ。ごめんね、勝手に吸っちゃった。で

  • あなたの罪まで愛してる   12話 眼差し

    横断歩道を渡りきる頃には、男の背中はもう人の波に紛れかけていました。愛梨沙は、白いボトルを握ったまま、ほんの少しだけ歩幅を早めました。青信号の音が、濡れた夜に薄く伸びています。人の波が動きました。傘の縁から落ちる雫、革靴が白線を踏む音、誰かの笑い声、濡れたビニール袋の擦れる音。駅前の横断歩道は、昼間より少しだけ汚れて見えました。白い線の上を、男の黒い靴が渡っていきます。愛梨沙も、その少し後ろを歩きました。同じ白線を踏みました。右足、左足。男の足跡なんて残っていません。雨がすぐ消してしまいます。けれど愛梨沙には、どこを踏めばいいのか分かる気がしました。濃紺の背中は、人の間に入ると見えたり消えたりしました。大きな傘の向こう、スーツ姿の男の肩の隙間、自転車を押す人の後ろ。濃紺が消えるたび、白いボトルを握る指に力が入りました。見つけ直すまで、息が少し浅くなります。(待って。違う、待ってじゃない。私が見てるから。あなたの背中が人の中に沈んでも、濡れた肩の色も、指の形も、ちゃんと拾えるから)白いボトルは、もうぬるくなっています。さっきまで甘かった匂いも、少しぼやけていました。飲み物というより、手の中に残された小さな証拠みたいでした。捨ててもいいはずでした。駅前にはごみ箱があります。コンビニにも戻れます。けれど愛梨沙は、捨てませんでした。そのボトルを持ったまま、男の後ろを歩きました。目の前の人混みが、少し詰まります。横断歩道の先で、誰かの傘が風に煽られたのです。黒い傘が大きく傾き、隣の人の肩にぶつかりました。「すみません」小さな声がして、人の流れが一瞬だけ乱れました。男も足を止めました。愛梨沙の足も止まりました。近い。思ったより、ずっと近いところにいました。濃紺の上着の肩が、雨の光を受けて少し湿っています。黒い傘を持つ左手には結婚指輪が見えました。街灯を受けて、小さく光ります。胸の奥が、きゅっと縮みました。嫌な光です。でも、嫌いにはなれませんでした。男は、肩越しに少しだけ顔を動かしました。後ろを振り返ったのです。理由は愛梨沙ではありません。ぶつかった傘のせいかもしれません。人の声がしたからかもしれません。ただ何となく、後ろの気配を見ただけかもしれません。それでも、その視線がこちらを通りました。ほんの一瞬でした。本当に、

  • あなたの罪まで愛してる   11話 水のない部屋

    赤い爪の女は、もういませんでした。さっきまで男の隣にいた女です。薔薇のルビーのピアスを受け取り、男の袖に触れ、ホテルの方へ一緒に消えていった女。その赤だけが、今はどこにもありません。雨に濡れた歩道の端を、濃紺の背中だけが横切っていきました。ひとりでした。黒い傘を持つ左手が、少し重そうに揺れています。愛梨沙は白いボトルを握ったまま立っていました。甘い飲み物はもう欲しくありません。喉の奥に残った匂いが、少しずつ重くなっていきます。甘いのに渇くような味でした。(拓哉さん…)名前を呼んだだけで、喉の奥が少し痛みました。声には出しません。出したら、雨の中に落ちてしまいそうでした。届かない名前を呼ぶのは、泣くのと少し似ています。届かなかったら、呼んだことまで恥ずかしくなるからです。男は駅の反対側へ歩いていきます。急いでいるようには見えないのに、足取りは軽くありません。人にぶつからないよう肩を避けながら、帰る場所を決め損ねたような顔で歩いていました。麻里亜はいません。妻もいません。白いニットの女も、ここにはいません。それなのに男の周りには、誰かの気配だけが薄く残っているようでした。赤い爪のあと、青い紫陽花の気配、白い袖の甘さ。そういうものを全部置いてきたような顔で、男はひとりで歩いています。愛梨沙は少し遅れて足を動かしました。違う。追っているわけではありません。ただ同じ方向へ歩いているだけです。駅前の道は誰でも通ります。雨の日の夜に、濃紺の背中を目で追うことくらい誰にでもあるはずです。そういうことにしました。けれど愛梨沙の足は、男が曲がると同じように曲がりました。男が人の流れから外れると、愛梨沙も少しだけ端へ寄りました。白いボトルを持つ手に湿った熱がこもります。甘い匂いが、手袋の内側まで入ってくるようでした。男は駅ビルの脇にある屋根の下で立ち止まりました。雨を避けるためではなさそうです。ただ、そこでいったん足が止まったのです。黒い傘を持ったまま、スマホを取り出します。画面の光が男の顔を下から薄く照らしました。昼間、ジュエリーショップの硝子越しに見た横顔より、ずっと疲れて見えました。目の下に影があります。口元は閉じているのに、何かを言い損ねたように少し硬い。男はしばらく画面を見ていました。誰かに電話をするのかもしれません。妻へでしょうか。

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